アテナとポセイドン:アテナイの守護神を巡る争いとオリーブの奇跡

古代アテナイの守護神は、いかにしてアテナに決まったのか。ポセイドンとの贈り物競争、神々の審判、そしてアウグスティヌスが伝える「女性たちの投票」という異伝まで、古代の文献からその全貌を紐解きます。

Humanitext Antiquaの写真
著者:Humanitext Antiqua
YouTubeで動画を見る
アクロポリスの丘でオリーブの木と塩水の泉を前に対峙する女神アテナと海神ポセイドン

アテナとポセイドン:アテナイの守護神を巡る争いとオリーブの奇跡

古代ギリシア、アテナイのアクロポリス。この聖なる丘の支配権を巡り、かつて二柱の偉大な神が激しく争ったことをご存知でしょうか。これは単なる神話ではなく、都市の運命と政治、そして人々のアイデンティティを決定づけた「選択」の物語です。

神々の贈り物とアクロポリスの決闘

物語は、アテナイがまだ「ケクロピア」と呼ばれていた時代、初代の王ケクロプスの治世に遡ります。彼は上半身が人間、下半身が蛇という姿をした大地の子でした (Apollodorus Library 3.14.1)。ある時、神々は自分たちが崇拝されるべき都市をそれぞれ確保しようと決意し、アッティカ(アテナイ周辺の地域)の支配権を巡って、海神ポセイドンと知恵の女神アテナが名乗りを上げました。

最初にこの地にやってきたのはポセイドンでした。彼はアクロポリスの中央をその三叉の矛で力強く打ち据えました。するとそこから海水が湧き出し、海神の支配の証としました (Apollodorus Library 3.14.1)。ローマの詩人オウィディウスは、この劇的な瞬間をまるで見てきたかのように鮮やかに描写しています。

Stare deum pelagi longoque ferire tridente aspera saxa facit, medioque e vulnere saxi exsiluisse fretum, quo pignore vindicet urbem;

「海の神が立ち、長い三叉の矛で荒々しい岩を打つ姿を描く。岩の傷口の真ん中から海水がほとばしり、それによって都市の支配権を主張するのだ。」

(Ovid Metamorphoses 6.75–77)

ポセイドンに続いて現れたアテナは、自らの占有権の証人として王ケクロプスを立て、一本のオリーブの木を植えました (Apollodorus Library 3.14.1)。オウィディウスの描写によれば、女神は盾と槍で身を固め、大地を槍で突いて、実をつけた青白いオリーブの木を生み出したとされています (Ovid Metamorphoses 6.78–81)。

こうしてアクロポリスには、ポセイドンの「塩水の泉(海)」とアテナの「オリーブの木」という二つの奇跡が並び立ち、どちらの神がこの都市の守護者となるべきか、激しい争いが生じたのです。

十二神の審判とアテナの勝利

二柱の神の争いを解決するため、ゼウスは仲裁に入りました。一部の伝承ではケクロプスやクラナオスといった人間が審判を下したとも言われますが、アポロドロスによれば、ゼウスはオリンポスの十二神を審判員として任命しました (Apollodorus Library 3.14.1)。

神々の法廷において、証言台に立ったのはこの地の王ケクロプスでした。彼は、アテナがオリーブを植えたことを証言しました。アポロドロスは、この証言が決定的となり、アテナに軍配が上がったと記しています。

καὶ τούτων δικαζόντων ἡ χώρα τῆς Ἀθηνᾶς ἐκρίθη, Κέκροπος μαρτυρήσαντος ὅτι πρώτη τὴν ἐλαίαν ἐφύτευσεν.

「彼ら(十二神)が判決を下し、ケクロプスが彼女こそ最初にオリーブを植えたと証言したため、その土地はアテナのものと判定された。」

(Apollodorus Library 3.14.1)

この判決により、都市は女神の名にちなんで「アテナイ」と呼ばれることになりました。しかし、敗北したポセイドンの怒りは凄まじいものでした。彼は激怒し、トリアシオンの平野を水浸しにし、アッティカ地方全体を海中に沈めてしまったといいます (Apollodorus Library 3.14.1)。

この神話的な対立は、後世のアテナイの政治思想にも影響を与えました。プルタルコスによれば、古代の王たちはアテナとポセイドンの争いを引き合いに出し、市民を海から遠ざけ、農業に従事させようとしました。アテナがオリーブ(農業の象徴)を見せることでポセイドン(海の象徴)に勝利したという物語を利用したのです。対照的に、後にテミストクレスはこの伝統的な解釈に挑戦し、都市と港を一体化させることで、アテナイを海洋国家へと変貌させました (Plutarch Themistocles 19.3–6)。

不死鳥の如きオリーブの木

アテナが勝利をもたらしたとされるオリーブの木は、単なる神話上の存在ではなく、アテナイ市民にとって目に見える信仰の対象でした。アクロポリスのエレクテイオン神殿には、ポセイドンの塩水と共に、このオリーブの木が祀られていました (Herodotus Histories 8.55)。

この木にまつわる最も感動的なエピソードは、ペルシア戦争の最中に起こりました。クセルクセス率いるペルシア軍がアテナイを占領し、アクロポリスの神殿に火を放った際、この聖なるオリーブも焼失してしまいました。しかし、その翌日、ペルシア王の命を受けてアテナイからの亡命者たちが犠牲を捧げに登ったところ、驚くべき光景を目にします。

δευτέρῃ δὲ ἡμέρῃ ἀπὸ τῆς ἐμπρήσιος Ἀθηναίων οἱ θύειν ὑπὸ βασιλέος κελευόμενοι ὡς ἀνέβησαν ἐς τὸ ἱρόν, ὥρων βλαστὸν ἐκ τοῦ στελέχεος ὅσον τε πηχυαῖον ἀναδεδραμηκότα.

「火災の翌日、(ペルシアの)王に命じられて犠牲を捧げるためにアテナイ人たちが神殿に登ると、切り株から1ペキュス(約45cm)ほどの若芽が伸びているのを目撃した。」

(Herodotus Histories 8.55)

パウサニアスもまた、このオリーブが焼かれた当日に2ペキュスも成長したという伝承を記録しています (Pausanias Description of Greece 1.27.2)。灰の中から蘇ったオリーブは、アテナイという都市の不屈の生命力を象徴するものとして語り継がれたのです。

異伝:市民の投票と女性たちの受難

さて、この守護神争いには、アウグスティヌスがローマの学者ウァロの説として紹介している、非常に興味深い別のバージョンが存在します。ここでは、神々の決定ではなく、市民による「民主的な投票」が行われたとされています。

ある時、アテナイにオリーブの木と水の噴出という不思議な現象が現れました。王がデルフォイの神託に意味を問うと、オリーブはアテナを、水はポセイドンを象徴しており、どちらの神の名を都市につけるかは市民が決めるべきだという答えが返ってきました (Augustine De Civitate Dei 18.9)。

そこでケクロプス王は全市民を招集して投票を行いました。当時、アテナイでは女性も公的な決定に参加する権利を持っていたのだといいます。結果は、男性全員がポセイドンに、女性全員がアテナに投票しました。そして、女性の数が男性よりも一人だけ多かったため、アテナが勝利しました (Augustine De Civitate Dei 18.9)。

しかし、ここでもポセイドンは激怒し、海を荒らしました。彼をなだめるために、アテナイの女性たちには過酷な罰が課されることになりました。

ut nulla ulterius ferrent suffragia, ut nullus nascentium maternum nomen acciperet, ut ne quis eas Athenaeas uocaret.

「今後、彼女たちはいかなる投票も行ってはならず、生まれてくる子供は母親の姓を名乗ってはならず、誰も彼女たちを『アテナイア(アテナの女たち)』と呼んではならない。」

(Augustine De Civitate Dei 18.9)

アウグスティヌスはこの伝承を通じて、アテナイという偉大な都市の名前が、実は女性たちの勝利に由来するものでありながら、その勝利が女性たちの権利剥奪という皮肉な結果を招いたと論じています。これは主流のギリシア神話とは異なる視点ですが、古代の人々が社会制度の起源を、神話の中に求めていたことを示す興味深い例と言えるでしょう。

アクロポリスに残されたオリーブの木と塩水の跡。それらは、神々の争いの記憶であると同時に、アテナイという都市が歩んできた歴史と、その社会構造を映し出す鏡でもあったのです。


(編集協力:鈴木 祐希)

日本の季節観:文人たちのまなざし

日本の季節観:文人たちのまなざし

日本の文人たちは、小説や随筆などの多様な表現形式を通して、移ろいゆく季節や生命の営みに深く向き合ってきました。彼らの繊細な感性と鋭い観察眼は、私たちに自然との対話の扉を開き、日常の風景の中に隠された美と哲学を教えてくれます。

日本の原風景:土地が語る記憶の物語

日本の原風景:土地が語る記憶の物語

ハエの羽音に亡き人を重ね、一本足の案山子(かかし)に神様を見る。 日本人にとって不思議な物語は空想ではなく、すぐ隣にある「生活」そのものでした。 海の彼方への憧れや、古びた塚に残る伝説。柳田國男や小泉八雲らが拾い集めた、恐ろしくも優しい「心の原風景」を旅してみませんか。

「理屈」を超えた驚異へ:科学者たちが覗いた美しき深淵

「理屈」を超えた驚異へ:科学者たちが覗いた美しき深淵

科学は、無機質な計算ではありません。それは人知を超えた自然への畏敬であり、終わりのない美の探求です。雪の結晶に宇宙を見、道端の草に命の猛々しさを感じる————。論理の果てにこそ現れる、圧倒的な「神秘」と対峙した知の冒険者たち。その静謐で熱い魂の記録に触れます。

「私」を叫ぶ魂:近代女性が描く、運命と矜持の物語

「私」を叫ぶ魂:近代女性が描く、運命と矜持の物語

女性の人生は、運命への諦念で塗り固められるべきでしょうか。それとも、社会の壁を突き破り、自らの「生」を勝ち取るための戦いでしょうか。一葉が吐いた乾いた自嘲、晶子が愛する者のために放った痛烈な叫び。時代という鎖に抗い、泥にまみれながらも「私」を確立しようとした、彼女たちの魂の叫びに耳を澄ませます。